やわらかな侵蝕 2

 甲板に朝食を告げるサンジの声が響くと、ダイニングにクルーが集まり、賑やかな声が食卓を囲む。

 明け方近くに見張り番を交替した後僅かな仮眠を取ったゾロが少し遅れて顔を出すと、サンジはいつもとなんら変わりなくそこにおり、キッチリと黒いスーツに身を包んだ見慣れた姿でせっせと給仕に動き回っていた。
 おはようと声をかけてくるクルーと朝の挨拶を交わしながらゾロがテーブルに付くと、流れ作業のように手早くパンとスープの皿が運ばれてくる。半ば寝惚けた頭でその動きを追っているとふとした拍子にサンジと目合うのだが、特に何があるでもなくすぐにその視線はどこかに逸れてしまう。キッチンとテーブルを往復しているサンジをぼんやりと眺めながら、何度目かに視線が合ったかと思ったとき、他のクルーにするのと同じ調子で「茶入れるか?」と声をかけてきたので一瞬ドキリと目が冴えたが、ゾロも努めて自然に「おう」と返し、そうして何事もなかったように一日が始まった。

 普段はいとも容易く眠りに落ちれるゾロも、昨夜はなかなか寝付けなかった。
 焼きたてのパンをかじりながら度々視界を過ぎるサンジの姿に嫌でも昨夜の出来事が思い起こされるのだが、サンジは至っていつも通りで、ゾロを気に留める様子さえ見せない。
 散々混乱させられた挙句睡眠時間まで奪われたゾロとしては一体何のつもりでそうしているのかサンジを問い質したくもなったが、他のクルーの手前その話題を持ち出すのはさすがに憚られる。恐らくサンジも皆がいる前ではその胸中を話すことはないだろうと思い、ゾロもいつも通りクルーの談笑の輪に混じり、いち早く自分の分を食べ終えたルフィが伸ばす手との攻防を繰り広げているうちに朝食の時間は和やかに過ぎていく。
 ゾロが食べ終わる頃には他のクルーも各々好きなように動き出しており、サンジが食卓を片付ける傍らちらほらその場に残って食後のお茶を楽しむ姿もあった。
 そこでサンジを連れ出しても良かったのだが、改めて向き合ったとしてサンジに何を言うつもりなのだろうか。食後のお茶を啜りながら考えてみても想像の中で言葉に詰まる。それに、昨日の事などまるで何も覚えていないかのように振舞うサンジを見ているうちに、ゾロばかりが気にしているのもバカらしくなってきていた。
 ゾロは残りのお茶を一気に飲み干すとキッチンに立つサンジの顔も見ないまま一言「ごちそうさん」とだけ声をかけて、展望室に上って朝のトレーニングを始めることにした。

 晴れやかな陽射しが差し込む展望室の窓を開けると、心地よい風が吹き込んでくる。
 甲板から無邪気に響く声を遠くに聞きながらさっそく準備運動に軽く体を動かし始める。適度に温まってきたところで気合いを入れてシャツを脱ぎ捨てると、鍛え上げられた上半身が露になり、ふと、サンジのシャツ隙間に見えた白い胸元を思い出した。
 普段はスーツを着込んで露出の少ないサンジとはいえラフに気崩す姿も見慣れたものだったし、同じ船で寝食を共にしていれば裸を見る機会などいくらでもある。なにもあの時初めて見たわけでもないのに、それはいやに艶かしく脳裏に浮かび、乱れた呼吸に合わせサンジの興奮を伝えるように弾んでいた。
 お前に抱かれたいとサンジは言った。あの白く弾む肌とこの体が重なり合うのだろうか。ゾロの太く逞しい両腕がサンジの細身を抱きすくめると、腕の中にすっぽりと納まったサンジが切なげにゾロを見つめてくる。それから具体的にどうするのだろう、と考えてゾロは慌ててかぶりを振った。
 朝から何を考えているんだ。世界最強の大剣豪を目指すからには強靭な肉体はもとより、何事にも動じない精神力も必要なのだ。いくらサンジが謎の渦巻き持ちで、それがひどく蠱惑的に見えたからといってそれしきの事に心を乱されてどうする。あの時サンジはただ処理するだけだと言っていたし、実際出すものを出しただけなのだ。ゾロがしたことと言えば、少し髪を撫でただけ。
 トレーニングはこれからだというのに額にじんわりと汗が滲むのを感じ、気を取り直して鉄棒を握って懸垂を始める。体を動かしていれば余計なことを考えなくて済む。
 だが、そういえばサンジは抱かれるほうが下だと思ったら大間違いだ、とも言っていた。やっぱり押し倒されるはゾロの方でさも満足気に笑みを浮かべるサンジを下から見上げることになるのだろうか。ムカつく。無性に脳内サンジの胸倉を掴みたくなり、今掴んでいるのは無骨な鉄棒だということに気付いて我に返る。
 鉄棒にぶら下がりながらどこまで数えたかと思い出そうとするがうまく思い出せない。初めから数えてすらいなかったのかもしれない。
 鉄棒から降りて呆然と辺りを見渡すと、壁沿いに設えられたベンチにサンジの気配を思い出す。隣に感じた熱も漂う煙ももう何も残ってはいないはずなのに、煙草の匂いが鼻先を擽った気がして、それを振り払うようにゾロは再びかぶりを振った。
 完全に集中を欠いている。
 隙を見せれば易々と頭の中に侵入してくるサンジを追い出しながら、目に付いた一際体積の大きい串団子じみた錘を手にし一度深く息を吐く。ずっしりと腕に掛かる負担に集中し今度こそ振り下ろした数を数え始めるのだが、慣れた動作が油断を招いたのか数十を数えた頃には例えサンジがのしかかってこようともこの錘よりずっと軽いサンジの身体を押さえつけるのは容易いことで、あとはあの厄介な脚さえ封じてしまえば良い、と考え出していたので、ゾロは絶望的な気持ちになった。
 あれこれと試してみても隙を付いてサンジの姿が頭をもたげまるで身が入らない。すっきりするどころかもやもやしたものが腹に溜まる一方だ。これほどまでに散漫なのは睡眠が足りていないせいかもしれない。
 ゾロは事務的に振るばかりになっていた錘を置き、ベンチに腰を降ろして窓の外を眺めた。
 甲板にはクルーが各々の時間を過ごている様子が見えたが、そこにサンジの姿はない。まだキッチンに立っているのだろうか。見えるはずも無いのだがサンジを探してダイニングの窓を凝視していると、扉が開いてキラキラ目立つ金髪がようやく姿を現した。どうやら一服に出てきたらしく、欄干にもたれると船上を眺めるようにして煙草の煙を燻らせている。あれが今どんな顔をして何を考え、昨夜の行為を一体どう捉えているのか……考えるだけ無駄なことはわかっている。
 確かにあれはぐるぐると感情も態度も変わる男だ。だが昨夜のサンジは今まで見てきた姿のどれとも違う。ゾロの知らない一面を見せたあの出来事はやはり夢だったのではないかとさえ思う。だが、下半身にサンジの舌の這う感触も、さらりと滑り落ちる金糸の柔らかさも鮮明に覚えている。脳裏に焼き付く記憶が紛れも無い事実としてそこにあるのだ。
 しばらくして、ナミに声をかけられたサンジがぐるぐる回ってハートを飛ばすと急いでダイニングに飛び込んでいった。恐らく何かをリクエストされたのだろう。いい様にこき使われていることを知ってか知らずか逆上せ上がる姿は見慣れたもので、最近はその鬱陶しさに苛立ちを覚えるよりも呆れ半分にもおちょくる楽しさに目覚めかけていたゾロなのだが、こっちは朝からサンジを気にしてトレーニングの邪魔までされているというのに、一方のサンジはアホ丸出しで何事もなかったかのように過ごしていることが腹立たしく、やけに癇に障った。
 苛立ち混じりに窓を閉め、ベンチに横になる。やはり睡眠が足りていないのだ。だから余計なことばかり考えてしまって、神経も変に過敏になっている。あんなことがあってからまだ1日も経っていないのだ。時間が経てば記憶も薄れる。起きてもまだすっきりしないようなら、その時改めてあのアホを問い詰めればいい。
 そう考えて静かに目を閉じると、静寂な空間と暖かな陽気がまどろみを誘い、間もなくしてゾロの意識は遠のいていった。



「おいコラマリモ、いつまで寝てんだてめェは」
 眠りに落ちていたゾロが目を開けると、その声色と同じく如何にも不機嫌そうなサンジがゾロを見下ろしていた。
「おー……飯か」
 窓の外に広がる空はまだ明るかったので、昼飯の時間か、と上体を起こしながら頭に浮かんだ言葉をそのまま口にすると、呆れたようなサンジの言葉が飛んでくる。
「アホ。昼飯はとっくに終わったっつーの。もうおやつの時間だ」
「そんなに寝てたか…」
 どうやら思いの外ぐっすり寝入っていたらしい。欠伸をひとつして自分を起こしに来た男を見ると、今更ながら睡眠不足の原因がすぐそこにいることに気付く。あまりにも自然すぎる一連の応対にすっかり忘れるところだった。
 だが、もしかしたらこのまま忘れてしまった方がいいのかもしれない、とも思った。昼寝をする前よりすっきりとしていた頭で考えてみると、ひょっとして今朝からのサンジの態度はそういうことだったのかもしれないと思い至る。
「で?飯食うのか?食うなら作るし、おやつも欲しかったら……それともまだ寝てるか…?」
 だがゾロがそう考えた傍からサンジの態度が怪しくなってきた。覗き込むようにしてその表情をまじまじと伺うと不自然に顔を逸らされたので、昨夜のサンジが脳裏に蘇る。さっきまでのふてぶてしい態度はどうした。
「メシは食う」
「そうか。じゃ、降りて来いよ」
 ゾロが立ち上がると、サンジはそのままゾロを見ることもなく展望台を降りようとする。昨日言葉無く見送った背中と同じ背中がそこにあり、思わずその肩を掴み昨夜の一件を問い詰めたい衝動に駆られたが、もしサンジが忘れようとしているのなら徒に思い出させる必要はないのではないかと伸ばしかけた手を止めた。
 考えてみれば好きだと告げてきたサンジにゾロはNOを返したのだから、一応サンジはゾロに振られた?ということになっているのだ。まんまと口車に乗せられて咥えられはしたが、もしまた昨日と同じようなことをサンジが言い出したとしても応えられないことに変わりない。それならばこのまま何もなかったことにしてしまった方がお互いにとって良いのではないか、とゾロは思ったのだが、
「…昨日、あんなことしちまったから、おれの顔なんて見たくねェかと思ったけど……良かったぜ」
 サンジはそうは考えていなかったらしい。
 折角触れずにやり過ごそうとしていたのにサンジ自らその話題を持ち出してきた上、柄にも無い心配をしていたことにゾロはずっこけそうになった。
「てめェ、人が折角…!」
「あ?なに?」
 あまりにもすっとぼけた調子で振り返るサンジだが、昨日の事はやはり夢ではなく現実に起こったことはその言葉から疑いようも無く、だとしたら今朝からの態度はなんなんだと頭を抱えたくなった。そしてそんなゾロに追い討ちをかけるようにサンジが続けて口を開く。
「もしかしてやっぱヤだった…?」
「その"ヤ"がどこを指してるのかがまずわからねェが、とりあえずてめェ、一旦待て」
 やはりこの男の考えていることはサッパリわけがわからない。
 ゾロの機嫌を伺うような健気とも取れる態度のサンジにはどうにも調子が狂わされるが、ゾロとて今朝から気になっていたことなのだ。邪魔者もいない今、改めて問いただすには丁度良い。
 待てという言葉に素直に受け入れたサンジは、梯子にかけていた手を離すとゾロに向き直ったので、話を聞く気はあるらしい。その視線は少し横に逸らしてはいたが、おとなしくゾロの言葉を待っている。
「…お前一体、どういうつもりだ?」
「どうって…別に、ふつう」
「普通ってなんだよ」
「普通に好きだ」
 昨夜唐突に投げかけられた言葉を改めて繰り返され身が仰け反る。同じ顔の高さで少し照れたように頬を赤らめるサンジがはっきりと見え眩暈がした。
 ゾロが返す言葉に窮していると、その様子を見て取ったサンジが続ける。
「だから、昨日も言ったろ。お前は何もしなくていい。気が向いたら身体貸してくれって。そんだけ」
 昨夜言ったことをそのまま繰り返すサンジはあっけらかんとしたもので、そこに迷いや悩みなど無いように思える。
「他に何かあんのか?」
 何か、と問われても、呼び止めてみたもののゾロにはやはりなにもない。何をしてくれと要求されればそれを否定することも出来るが、何もしなくていいと言われてしまえばそれ以上ゾロがどうこう出来る事はないのだ。
 腑に落ちない思いはあれど、それをどのような言葉を用いてサンジに問えば解消できるのか、ゾロには思いつかなかった。
「いや…わかった。ならいい」
「おう。お前はそのままでいてくれ」
 サンジは少し笑ってそう言うと、再び踵を返しさっさと甲板へ降りていったので、ままならなさを感じながらも脱ぎっぱなしにしていたシャツを着直し、続いて展望室を後にした。

 サンジに少し遅れてダイニングに入ると、おやつタイムもとっくに終わって皆解散しているらしく、キッチンに立つサンジ以外誰もいなかった。
「すぐ出来るから待ってろ」
「おう」
 がらんとしたテーブル席に一人着くと、正面のキッチンが良く見渡せる。手際よく遅れた昼食の支度をするサンジの姿が自然と目に入るので、それを眺めて待つことにした。
 そういえば、いつもはゾロが寝ていても飯の時間になるとサンジに蹴り起こされ全員でテーブルを囲んでいたので(ゾロが起きずに次の飯の時間まで放置されることもままあったが)こうして一人で席に着き、サンジと二人きりでいるのは珍しい気がする。
 なぜ今日はこんな中途半端な時間に起こしにきたのだろうかと疑問が浮かんだが、先ほどのサンジの言から察するにゾロに気を遣って昼間は起こしに来なかったのだろうか。それとも、意外とあれでサンジもゾロと顔を合わせ辛いと思っていたのか。その両方かもしれない。
 ゾロに対しては無遠慮に言いたいことを言ってくる男だとばかり思っていたが、その胸中にとんでもない爆弾を隠し持っていたのだ。他に何を隠していたって不思議じゃない。もしかしたらあの頑なに隠された左目には見たものを石化する力が宿っているのかもしれない。確かそんな妖怪か何かがいたような気がする。そうなると益々油断ならない男だと思うが、サンジが実は妖怪でした、と言い出したとしてもゾロはそれほど驚かないような気がする。あれの不可解さはどちからというと妖怪の類に近い。眉毛が渦を巻いているのだって妖怪と言われれば納得もできる。それに、サンジには既に昨日嫌と言うほど驚かされている。今更あれ以上のビックリ新事実が発覚するとはさすがに思えないし、それほどまでに昨日のサンジは不可思議で衝撃的だった。
「何そんな眉間に皺寄せてんだよ。あんま難しいこと考えてっとハゲるぞ」
 そうしてゾロが真剣にサンジを考察していると、妖怪、もといソレの疑いがあるサンジの声が頭上に降り、ゾロの前に綺麗に盛り付けられたパスタが現れた。寝起きとはいえ昼食とおやつを食べそびれた腹は空になっていたようで、温かく立ち上るたらこの匂いが食欲を刺激してくる。手を合わせ、いただきますの言葉もそこそこにフォークに絡めて口に運ぶと、たらことバター醤油の風味が広がった。具材は小ぶりのイカと刻み海苔を振りかけたシンプルなものだったが、ごちゃごちゃと凝ったものよりシンプルな方が好みに合っているとゾロは密かに思っていた。
「おかわりはねェからな。どの道すぐに夕飯だ」
 そう言ってサンジは水を注いだグラスをゾロに差し出すと、隣の空いた席に腰を降ろした。何をするかと思えば、頬杖を付いてじろじろとゾロの横顔を眺めている。
「……何見てんだよ」
「見たいから見てんだよ、いいだろ」
「食い辛ェよ。そこにいんな」
「…わーったよ、しゃーねェな、夕飯の仕込みでも始めるとするか」
 ゾロが文句を言うと、サンジは渋々といった調子で席を立った。サンジがこれではやり辛くてかなわない。ゾロが一言文句を言えばさっと引き下がるのだから、肩透かしを食らったような気分になってサンジを見上げると、「海苔ついてるぜ」とゾロの口端を指で拭ってその指をぺろりと舐めたので、勘弁してくれ、という気分にもなった。
 こうなってくると逆に、ナミやロビンにするようにあからさまな態度にでも出てくれた方がやりようもある気もする。サンジに纏わりつかれる女はいつもこんな気持ちなのだろうか、と考えたが、このサンジは女に見せる顔とも違うのだ。
 ゾロに言われた通り席を離れキッチンに立つサンジを、パスタを頬張りながら再び眺めて見る。長い手足を忙しなく動かしているサンジを見て、昨夜の姿を思い出し、あれらが全て同一人物なのだと思うと不思議な気持ちになった。というより、サンジが不思議な生き物に思えてならない。やはり妖怪なのだろうか。
 あっという間にパスタを平らげ、空いた皿とグラスを下げつつキッチンにいるサンジに「ごちそうさん」と声をかけると、サンジは嬉しそうに「おう」と応えたので、この不思議な生き物は何がそんなに嬉しいんだと思い、そのまま口に出してみた。
「そりゃおめェ、好きな人がおれの作った飯美味そうに食ってくれたら嬉しいだろ」
「そういうもんか?」
「そういうもんだ」
 そうか、とそこで会話に区切りをつけたが、ゾロにはサンジの言う感覚がよく分からなかった。だがサンジにとってはそういうものなのだろうと一応の納得はして、ダイニングを後にした。
 甲板に出ると、静かな波音とクルーののんびりとした話し声が響く空を夕日が赤く染めている。なんとなく昼間展望室で見たサンジの赤く染まった頬の色付きを思い出しながら芝生甲板の隅に適当に寝転がる。サンジの肌は赤がよく映える。わかりやすくてよい。
 そうしているうちに程よく満たされた腹が睡魔を誘い、ゾロは再び眠りに落ちていた。



「おーいゾロ、夕飯食わねェの?」
 目が覚めた時、芝生と頭が同化しかけていたゾロを覗きこんでいたのはウソップだった。
「お、朝か」
「おい、夜だよもう」
 確かに寝転がった時の赤い空はすでに薄暗く、日が落ちている。
「もうみんなメシ食い終わるぜ。おめェの分残ってるかわかんねェけど」
「おー」
 おざなりに返事をしながら身体を起こすと、ウソップはそれ以上は何も言わずさっさとその場を去って行った。飯を食べ終わって甲板に出たところで通りがかりに寝こけるゾロを見つけ、とりあえず声をかけてくれたのだろう。
 どうやらまた飯を食いそびれたらしい。
 サンジはだいたい決まった時間に一日三食+おやつと夜食を用意するため、一度リズムが狂うとそのままずるずる乱れてしまう。だからサンジもわざわざ飯の度ゾロを蹴りに来ているのだが、昼食を中途半端な時間に食べたのでサンジもあえて起こしに来なかったのだろうか。
 海賊になって船に乗るまで、もっと言えばサンジが仲間になるまでは好きな時に好きなタイミングで食事を取っていたゾロは、初めこそキッチリと時間を守り規則正しいサンジのやり方が馴染まず、サンジが起こしに来るたび不機嫌になったものだが、今ではすっかり皆で食卓を囲む生活に慣れてしまっている。それにサンジの作る美味い飯を食いそびれると少し勿体無いことをした気になるので、最近は寝ている時にも食事の時間を告げるサンジの声は良く届くようになっていた。
 今は特別空腹を感じていなかったが、何か残っているなら腹に入れておこうとダイニングに足を向けると、何人かのクルーがまだその場に残っていた。
「あらゾロ、あんた今頃起きたの」
 のっそりと姿を現したゾロに呆れたようにナミが声をかけてくる。食後にコーヒーを飲みながら、手元に本を広げ隣で微笑むロビンと雑談でもしていたらしい。
「おう」
「もうみんな食べ終わっちゃったわよ」
 ダイニングを見渡すとテーブルに残っていたのはナミとロビン、そしてその後ろ、壁沿いのソファーに腰掛けて分厚い本を膝の上に広げているチョッパーと、優雅に紅茶を嗜むブルックの姿があった。
「でもサンジがゾロの分はあるって言ってたぞ」
 本から顔を上げたチョッパーがそう言うと、柱の陰になる位置にある扉がギイと開き、姿の見えなかった当のサンジがひょっこりと姿を現した。
「おうなんだマリモ、今頃のこのこ来やがって。もうメシは終わったぞ」
 入り口に立つゾロと目が合うや否やサンジは眉を潜め、そんな憎まれ口を叩いてくる。
「でもサンジさん、ちゃんとゾロさんの分は用意されてるってチョッパーさんが言ってましたよ、ヨホホ」
 だがお節介にもブルックが今さっき聞いた話を発表してしまったので、折角の悪態も台無しだった。
 食糧庫から運び出した食材を抱えキッチンに戻ろうとしていたサンジは、ブルックの発言に一瞬ギクリとしてばつが悪そうに顔を逸らしたが、暢気なブルックにつられてナミとロビンもくすくすと笑い出すと、困ったように眉を下げながらもいつもの調子でだらしなく顔を緩めて見せた。
「優しいコックさんで良かったわね、ゾロ」
「ほんとよ~、サンジくん、あんまりだらしない連中を甘やかさないでよね」
「甘やかしちゃいないよぉ、おれァちゃんと躾けようとしてンだけど、あの野生児どもときたらちっとも言うこと聞きやしねェんだ」
 ナミに冷やかしの言葉をかけられたサンジはデレデレと受け答えしつつも、チョッパーに余計なこと言うな、と釘を指すように睨みを利かせて見せたが、それがただの照れ隠しであることは紅潮した頬がありありと物語っていたので睨まれた本人もエッエッエと独特な笑い声を上げていた。
 そんな和やかな空気に躾けのなっていない野生児扱いされたゾロもどこか穏やかな気持ちでカウンター席に着くと、すぐにゾロの前に茶の注がれた湯のみが置かれる。
「ったく、飯の時間くらいちゃんと起きとけよ。体内時計にアラーム機能でも付けとけ」
 言葉の裏をすっかり見透かされていることはサンジもわかってはいるのだろうが、あくまでその態度を崩すことなく、しょーがねェな、などとぶつくさ文句を言っていたが、しばらくするとゾロの分として取って置いたのであろう夕食の皿を並べてくれた。いつもなら憎たらしいサンジの小言も場の雰囲気のせいか妙にくすぐったく感じ、後ろで「それいいわねサンジくん」「フランキーにつけてもらえるかしら」「ならビームもあった方がカッコイイぞ」「刀を生やせば四刀流になりますねヨホホ」と本人そっちのけで進められるゾロ改造計画に花が咲く声を聞きながら、温かく湯気を立てる夕食にありがたく「いただきます」の言葉かけ、箸をつけた。とりあえず「おれを変態と一緒にすんな」とだけは口を挟んでおいた。

 クルーの談笑がぽつぽつと聞こえていたダイニングは、ナミが進路の確認に席を立ったのを皮切りに一人また一人と散っていき、いつしかキッチンで洗い物をするサンジと食事を取るゾロだけが残されていた。
 ゾロが来たときにはテーブル席でナミとロビンが寛いでいたため、一人これから食事を取るゾロはなんとなくカウンター席に座ったのだが、団欒の輪が解散し静かな時間が訪れると昼間観察していた時よりもずっと近くにサンジが見える事に気付き、ご飯のオカズに再びそれを眺めることにした。我ながら良く飽きもせず、と思わないでもなかったが何せサンジには謎が多い。妖怪の疑惑もある。今までこんなにサンジを意識したことがなかったのでただ好奇心を擽られているだけなのかも知れないが、なぜだか見ていて飽きることはなかった。
 下に向けられた丸い頭は部屋の灯りを反射するように光り、その髪の柔らかさをゾロはもう知っている。顔に垂れる前髪を、そういえばいつだったか、そんなに長くて鬱陶しくないのかと思ったことがあった気がする。だがゾロのように短く刈り込んだサンジを想像してみてもあまりしっくりこない。長い方が弄ぶには都合が良いし、それに隠れた眉毛も片眉と同じように渦巻いているのだとしたらとんでもなく面白いことになっている。何かとキザったらしいサンジのことだ、それを隠すために伸ばしているのかもしれない。出した方が愉快な気持ちになると思ったが、果たしてそれが露になったときゾロが石化したりしないだろうか。
「てめェ何一人でニヤニヤしてんだよ」
 いつの間にか洗い物の手を止めていたサンジが眉をひそめてゾロを見ていた。頭の中の愉快な想像が顔に出ていたらしい。締りの無い顔を晒していた事が決まり悪く、表情筋を引き締め直してサンジを睨む。
「…別にしてねェよ」
「うそつけ。……何考えてたんだよ」
「そりゃてめェのことだろ」
「えっ……あ。そ、そっか」
 ゾロが答えると、一瞬きょとんしたサンジは目を白黒させて慌しく洗い物を再開した。さっきよりも頭を深く下げたサンジの髪の隙間に覗く耳が赤く染まっている様子に気を良くしてゾロもサンジ観察を再開する。
 水仕事のためにスーツのジャケットを脱ぎ、捲り上げられたシャツの袖口から伸びる腕にはしっかりと筋肉が付いている。ゾロの腕と比べてしまえば余程細く、肌の白さが一見頼りなくも見えるが、その腕がこの船の食欲旺盛なクルーの食事を毎食作っているのだから見た目から受ける印象よりよっぽど逞しい。
 シャツに空ける身体のラインだってそれは同じで、ゾロの目にはまだまだ薄っぺらく見えても強力な足技を繰り出す身体はしっかりと鍛えられ、しなやかに跳ねるのだ。そしてこのシャツを脱げば頬や腕と同じ白がある。

(お前に抱かれてェんだ)

 昨夜は唐突に投げかけられ混乱する頭ではうまく飲み下せなかったが、やってやれないこともないのではないか、と思う。自身を咥え込むサンジを目の当たりにしても、ゾロは嫌悪感が湧くこともなく快楽を得、達することが出来たのだ。それもいつもより頗る調子が良かった。
 お前は何もしなくて良いと言ったサンジだったが、ゾロに拒否される前には確かにあった欲なのだ。
「…つーか、そんなに見られると、恥ずかしいんだけど…」
 ゾロがそんな事を考えていると、洗い終えた食器類を片付けていたサンジが咥え煙草でゾロを見下ろしていた。
「おめェだって昼間見てただろ」
「そりゃ、そうなんだが…」
 昼間はサンジをどかした後も夕食の支度をする姿を眺めていたのだから、総合するとゾロの方が長くサンジを見ていたことになるのだが、ゾロが相子を主張するとサンジはそれ以上特に文句を言う様子もなくゾロの手元を指差した。
「食い終わったなら皿、下げるぞ」
 言われて視線を落とすと皿はとっくに空になっていたので、カウンター越しにそれを渡し「ごちそうさん」と声をかける。それにサンジも「おう」と返し、下げた皿を洗い出した。
 飯が終わればゾロがダイニングに居座る理由は無いので、席を立ってその場を後にしようとしたところでふと、サンジの言葉によって中断された思考が巻き戻り、出る前に声をかけた。
「おいコック」
「何だ?」
「あとで上に酒持って来い」
「あァ?んだてめェ、偉そうに命令しやがって」
 どうやらいくら好きだと言ってもとりあえず悪態をつかなければ気がすまないらしい。それともこの悪態こそがサンジの照れ隠しなのだろうか。だがこのくらいいつも通りにしてくれるのはゾロにとっても有り難かった。しおらしく健気なサンジは変に胸の辺りをざわつかせる。
 サンジは一度は口をへの字に曲げてみせたが、「わーったよ、手が空いたらな」と結局は了承してくれたので、その返事を確認してダイニングを出た。
 なんだかんだと言いながらこうしてサンジは遅れても飯も用意しているし、頼みも聞いてくれる。ナミが言ってたように甘やかされているのだろうか。サンジがゾロに惚れているから?だがサンジの甘さはゾロだけに限ったことでもない。基本的にあれは甘い男なのだ。舐めたらきっと甘い味がするのだろう。
 
 展望室へ戻ったゾロは、サンジの配達を待ちながら朝出来なかった筋トレを仕切り直すことにした。
 たまに頭の中にサンジが顔を出すのは相変わらずだったが、朝よりどこか晴れた気分で鍛錬に励むことが出来ていた。