隣の船の男

 一日の業務を終えた海上レストランの夜。
 船内の自室に戻ったサンジはスーツのジャケットを脱ぎ捨て、胸ポケットから摘まみだした煙草に火をつける。
 大きな窓からは月明かりが差し込み、夜の室内を薄明るく照らしていたので、ベッドランプのささやかな光だけを灯すと窓を開けて外を眺めた。
 サンジの部屋はバラティエの2階にある。窓から見える空と海は、どんな表情をしていてもすっかり見慣れたものだったが、今日の景色には見慣れないものが映り込んでいた。
 帆の畳まれた船のマスト。客の出入りもとうに終わったこの時間、バラティエに横付けで停泊している船と言えば、今日から急遽雑用として働くことになったルフィと名乗る少年の海賊船だ。少年、と言ってもサンジとそう歳は離れていないのだが、子供じみた言動とは裏腹に、海賊船の船長をしているらしい。
 手配書などを目にした記憶もなく、その手腕の程はサンジの知るところではないが、今のところ雑用としての働きはたいして、いや、まるで役に立っていなかった。バラティエを壊した代償としてのタダ働きのはずが、今日一日損害しか出していないため、どうにも先が思いやられる。雇い主であるゼフ本人はどうせ新人の細やかなサポートなどするはずもないのだから、そんな彼の教育はサンジの役目になるだろう。
 スタッフの入れ替えが激しいバラティエでは、人材を選り好みできる余裕はないため、新顔が来た際は荒くれコック達の中に適当に放り出し、適応できればそのまま居着き、できなければ逃げ出していく形を採用している。基、自然とそうなっている。とは言え常時人手不足の現場だ。なるべく簡単には逃げ出さないよう、これまでもサンジが副料理長として多少の指導はしてきたつもりだが、自主的にやる気だけは持って来た人材とは違い、特に働く気などなかった子供を最低限使えるように教育しなければならないとなると骨が折れる思いだ。
 その反面、毛色の違う人材にサンジは少しだけ心が浮くような感覚も覚えていた。
 代わり映えのない毎日が退屈だったのだ。
 昼間、パティに店を追い出されたはぐれ海賊にサンジが飯を食わせている時、何故かその場に居合わせたルフィは突然サンジを海賊に誘ってきた。
 バラティエを離れる気など更々ないサンジは当然その場ではっきり断ったのだが、ワンピースを目指すなどと言う荒唐無稽な夢物語を語っていた彼の話に全く興味がないかと言えばそれも嘘で、言動の節々に”自由”を感じさせるルフィの存在に、少なからずサンジの心は動かされていた。


 開けた窓からデッキに出て、横付けされた海賊船を見下ろしてみる。
 海賊船にしては小ぶりの船だ。だがルフィ曰く、その海賊船の乗組員はルフィを含めてまだ4人――サンジを入たら5人、とのことだったので、この程度でも十分なのだろう。
 雑用として働くルフィの様子見がてらレストランに食事をしに来た仲間の面々を思い出せば、皆サンジと同年代の若者達だった。日頃見慣れた海賊共のイメージとはかけ離れた、仲良しグループと言っても差支えない程度には海賊らしさもない彼らは、差し詰め地元の幼馴染で海に出た駆け出し海賊と言ったところか。中には一人可憐な美女もいたのだから、少年期から大人の男ばかりに囲まれた環境にいるサンジにしてみれば、何もかもが羨ましく思える。
 雑用ルフィは一応は店の従業員として、住み込みコック達と同じようにバラティエ内の居住スペースで生活してもらうことになっている。船に戻してそのまま逃げられては困るので当然の対応ではあるが、船長が1年もの間拘束されることになってしまった船員達はどうしているのかと思えば、今日のところはまだ船長の動向を見るつもりで船を泊めているのだろう。船上を覗いて見ても甲板に人の気配はなく、部屋に明かりも付いていないことから既に就寝しているようだ。彼らの出発点が近場であれば一先ず船長を置いて地元へ引き返してもいいだろうにと律儀にも思うが、思いがけぬ事態にまだ先行きを決めかねているのかもしれない。


 そんなことを考えながら、サンジがぼんやりと隣の船を眺めていると、ふと頭上から視線を感じたような気がした。
 頭を上げて見るとメインマスト上部の見張り台に人がいたようで、緑頭の男が船を眺めるサンジの事を眺めていた。昼間レストランに来たルフィの仲間の1人だ。
 海賊船の見張り台はバラティエの2階より少し高い位置にあり、船を見下ろしていたサンジの視界には丁度入り辛い高さにいたため、いつからそうされていたのか全く気付かなかった。考えてみれば見張りの一人くらい起きているのも当然なのだが、見張り台の中で座り込んだ姿勢では男の頭から肩程度まで見えるのがせいぜいで、その上夜空に紛れていてはサンジが気付かないのも無理はない。だが人の気配がないと思って眺めていたサンジと違い、隣の船の男はサンジの存在を認識しているだろうに、無言でジロジロ眺めているなんて少々不躾な野郎だ。
 それとも何か用があって、言葉を選んでいる最中なのか。一応こちらは船長を人質に取っている、基、雇っている身分だ。何か言い分か伝言か、謝罪の言葉でもあるのなら聞いてやってもいいだろう。

 欄干に肘を預け、僅かに身を乗り出して男に声をかけてみる。
「よぉ」
「……おう」
 こちらから声をかけれられるとは思っていなかったのか、男は僅かに驚いたようであったが、控え目な返事を返しただけでそれ以上特に何か言おうという気配はない。煙草を喫みながらしばらく待ってみたが、変わらず無言でサンジを見詰めてくるので少々気まずい時間が流れた。
「おい、なんか用があってこっち見てたんじゃねェのか?」
「いや……別になんもねェよ」
「じゃなんでジロジロ見てんだよ」
「……なんかいたから見てただけだ」
「なんかってお前……」
 そんな珍しい動物でも見つけたかのような。それともただの退屈しのぎに動くものを眺めていたかのような男の言い分に脱力する。その態度も著しく太々しい。なんて不躾な男だ、とサンジはいささか腹が立った。
「あのな、てめェ、人をジロジロ見ンのは失礼だって教わんなかったのか?」
「……覚えてねェな」
「じゃあ今教えておいてやる。喧嘩売ってねェならこっち見んな」
「……まァ今はそんな気分じゃあねェな」
 そう言って男は鼻で笑い、人を見下すかのような上から目線のまま尚もサンジから目を逸らそうとはしなかったので、船の距離がなければ蹴りかかっているところだった。サンジの衝動が欄干に阻まれている内に男が言葉を続ける。
「見ての通り見張り中だからな。人の気配があったから気にして見ていただけだ」
「……チッ、だったら初めからそう言っとけ」
 体に血が巡り出していたサンジだったが、のんびりとした調子で続けられた男の言葉になだめられてしまい、一人いきり立ちかけていた気恥ずかしさを誤魔化すように煙草を深く吸い直した。
 よくよく見てみれば悪人面とも言えるその男に気安く声をかけてしまったのは間違いだったか。レストランで見かけたときはオレンジ髪の美女に気を取られ、その他のディティールは意識の他だったが、こうしてこの男を単体で見てみると正に海賊の獰猛さが滲み出ているではないか。真っ直ぐサンジを捉える鋭い眼光は今にも人を取って食いそうな……いや、今のこの男から害意は感じられないためそこまでは言い過ぎだが、その眼には体の芯にまで食い込む鋭さがあるように思えて、サンジを妙に落ち着かなくさせた。
 日常的にレストランで海賊を相手にしているサンジからすれば若輩海賊なんぞに恐れを感じるはずもないため、当然この男に対する感情も”恐れ”とは違う類のものなのだが……。

 あまり相性の良い相手ではなさそうだ。
 そう結論付けて、サンジはさっさとこの場を切り上げることにした。
「……まぁいい、明日も早ェんだこっちは。何もねェならおりゃもう寝るぞ」
「ああ」
「船長のことは残念だったな。せいぜい当面の身の振り方を考えとくこった」
「おー……」
「じゃあな、オヤスミ」
「ああ……おやすみ」
 簡潔に言いたいことだけを伝えながら室内に戻り、男の気のない返事を聞き届けてから部屋の窓を閉めた。
 男の言った通り、本当に”なんかいたから”サンジの事を見ていただけで、端から言葉を用いたコミュニケーションなど取る気はなかったのだと思う。声をかけたのは失敗だった。あの男の声が、視線が、妙な存在感を持ちだし、寝る前だと言うのに、変に心に波を立てられてしまった。
 あの時血の騒ぐままあの男に蹴りかかっていたら、あの男はサンジをどう受け止めただろうか。


(おいコック、お前仲間になってくれよ)
 昼間ルフィにかけられた言葉が頭の中に甘くリフレインする。
 バラティエを離れるつもりなんてない。だが、想像の世界は自由だ。ルフィに差し伸べられた手を取り、あの船に乗り込むと、歓迎してくれるオレンジ髪の美女と、鼻の長い気の良さそうな男、そして緑頭のアイツがいて、サンジの作った料理をとても美味しそうに食べてくれる。その時にはあの男だって親し気に笑いかけてくれるのかもしれない。些細な事で喧嘩もするのだ。そうして敵の海賊が攻めてきたら、あの男と肩を並べて戦って、それから――。
 今までとはまるで違う景色を想像しながら寝支度を済ませ、ベッドに横になる。
 目が覚めたらまた代わり映えのしない日常が始まる。だが明日からの1年間は、ルフィのおかげで退屈を紛らわせることが出来そうだ。これまでの冒険譚や仲間の話を聞かせて貰えたら、想像の世界の自由をもっと広げることが出来ると思うと、いつもより少しだけ、明日を迎えることが楽しみに思えるのだった。

END