天然由来

 一日の仕事を終えキッチンで一息吐いたサンジは、小さく欠伸を漏らした。
 壁に掛かる時計を見ると23時を少し過ぎており、汗を流して床に着くには丁度いい頃合だ。
 吸いさしの煙草を灰皿に押し付け、昼間立ち寄った島で買い出したままラウンジの片隅に置きっ放しにしていた紙袋から新品のコンディショナーのボトルを取り出す。
 普段、最低限の日用品は全員分をまとめて買い出しているのだが、他の男連中より身だしなみに気を遣うサンジは自由の利く範囲で自分しか使わない日用品を買うことがあった。これもその一つだ。
 空になった紙袋を片付けようとすると、袋の底に一つ、小さな包装が残っていることに気付く。そう言えば会計の際、ボディーソープの試供品を配っている、と言われたような気がする。
 薄桃色に花柄をあしらったパッケージデザイン的にも女性向けの商品のようだが、店舗利用者には漏れなく渡しているのだろうか。簡単な商品説明から香りを売りにしたボディソープらしいことがわかり、鼻先に近づけると包み越しにも仄かにフローラルが香った。女性向けならばナミかロビンに渡そうかと思い、芳香に包まれる女性陣の官能的な姿を妄想すると自然鼻の下も伸びるのだが、サンジの頭にふと、これを自分で使ってみればレディに包まれている感覚を擬似的に体験できるのではないかという考えが浮かんだ。
 ナミかロビンに渡せばきっと笑顔を見せてくれるだろうが、生憎試供品は一つしかない。恐らく1回分だろう。どちらか片方の笑顔を選ばなければならないのはサンジにはちょいと酷な選択だ。であれば、これは自分で使ってしまっても良いだろう。元々お試し用なのだから使ってみて良ければ、改めて二人にプレゼントすればいいのだ。
 天才的な発想に胸をときめかせたサンジは思い立ったが吉日、手早く風呂支度をしてユニットバスへ飛び込んだ。


 いつもより長めのバスタイムを終えたサンジは夢心地だった。
 人気の無いラウンジに戻り、一服しながら寝巻き代わりのTシャツから伸びる腕に鼻を近づけると、品の良い甘美な芳香が鼻腔をくすぐり、なんとも幸せな気分になる。
 試供品のボディソープは封を切ると、風呂場の熱気に混じってフローラルに香り立ち、瞬く間に美女のバスタイムを演出した。身体の隅々まで丹念に塗り込んだ芳香は洗い流した今も尚、しっかりとサンジの身体を包み込んでいる。嗅ぎなれた紫煙の漂う中、自分の身体から美女の香りがする倒錯的な感覚に頭がくらくらした。そこに柔らかな肉体がないことには少々の虚しさを覚えないでもなかったが、目を閉じればまるで美女に包まれているかのような感覚はサンジの心を高揚させるには十分だった。
 美女から漂う甘い匂いは日頃のボディケアの賜物なのかと思ったが、いや、美女というものはこのようなものを使わなくても美女相応の芳醇な香りを放つのだから、フレグランスはあくまでおまけにすぎない。だがサンジは男だ。普通にしていれば当然のようにむさくるしい男の匂いしかしないし、日頃のボディケア用品は当然、持ち前の男振りを引き立てる男性向けの物を使用しているのだ。まさかこんなにもお手軽に美女を感じられるとは……盲点だった。日常的に女性向けの商品を使うことはさすがに憚られるが、時々こんな楽しみ方をするのもいいかもしれない。ただそのためにはなけなしの小遣いを叩くか、女性陣に頭を下げてボディソープを借りる必要があるのだが、野郎用が切れてしまった、では嘘がばれる可能性がある。わざわざ女性用を使いたがる意図を探られるわけにはいかない。であれば、なかなか得られぬ貴重な機会なのだ。今のうちに十分に楽しんでおこう――。
 そうしてしばらく無意味に自分の身体を抱き締めたりしながらささやかな幸せに浸っていたのだが、自分の体臭がわからないように鼻は匂いに慣れてしまうもので、夢心地も次第に覚めてくる。この幸せを抱き締めたまま眠りたい。
 むさ苦しい世界へ戻らなければいけない現実を思うとうんざりするが、次第に薄れ行く夢の世界と舞い戻るまどろみにサンジは腰を上げ、束の間の幸せを噛み締めながら男部屋へ向かうことにした。


 賑やかな寝息を立てるクルーを起こさぬよう静かにハンモックに潜り、急に冷え出した空気にすっぽりと毛布を被る。
 幸せ香る肌に毛布の温もりが心地よく、風呂で十分に温まった体がほどなく眠気を誘う……はずなのだが、毛布の中に熱と共に広がる匂いがサンジを簡単に眠らせてはくれなかった。
 自分の身体から放たれる美女の香りと自らの体臭が混じり合い、新たな匂いとなったそれはまるで女性と共に寝ているような感覚に陥らせ、全身のときめきに興奮した脳はすっかり覚醒してしまっていた。
 周りは既に夢の中とは言え、近くに他人の気配がある中でこの悶々と渦巻く熱を放つのは気が引ける。
 トイレで一発抜いてこようかとサンジが上半身を起こした時、天井扉が開く音と共に本日の夜番である緑頭が顔を覗かせた。めくるめく夢心地の世界に急に飛び込んできたむさ苦しい代表の姿に一瞬さっと熱が引いたが、マストを伝って男部屋に降りたゾロはハンモックから半身を起こすサンジを一瞥するも、何を言うでもなく部屋の隅のタンスに向かったためサンジも気にせずハンモックから抜け出した。
 熱の巡る心身は未だ落ち着くことなくサンジを急き立てるのだが、ゾロの登場に少しだけ現実に引き戻された頭が、この新たなる発見の感動を誰かと分かち合いたいと訴えだした。何せ貴重な機会だ。
 色っぽい話をする相手にゾロは明らかに不向きなのだが、今はゾロしかいない。アレも年頃の男だ。エロネタは男同士で盛り上がれる共通の話題だろう。猥談に興じるゾロはちょっと想像できなかったが、それで少しは、普段は喧嘩ばかりの相手とも友情を深めることもできるかもしれない。





「ゾロゾロゾロゾロ、ちょっと」
 先ほどまで見張り台に上がっていたゾロは、急に冷え出した空気に上着を取ろうと男部屋へ降りてきていた。
 マストを下るときらりと揺れる金髪がハンモックの上に見えたのだが、ついさっき男部屋へ降りていくサンジの姿を見ていたため、これから寝るのだろうと気にすることなく部屋の隅のタンスを開く。雑然と詰め込まれた衣類の中から自分の上着を引っ張り出していると、こそこそと忍び寄って来たサンジが声をかけてきた。
 月明かりが差し込む薄暗い部屋の中、逆光気味の顔は良く見えなかったが、トーンを抑えながらも興奮した調子の声に顔だけ向けると、サンジはくいくいゾロの腹巻を引きながら身体を寄せてくる。むさ苦しい男部屋には似つかわしくない、甘ったるいような人工的な臭いが鼻に付き思わず眉をひそめた。
「なんだ、うるせェな」
「あのよ、ちょっと今おれの匂い嗅いでみ?」
「あァ?」
 またわけのわからないことを言い出すサンジを訝しげに見るのだが、薄闇に徐々に慣れ始めた目を凝らすと、サンジはそわそわと落ち着き無く、ぼんやりと見える瞳が爛々としておりなにやら面倒くさい予感がする。サンジの関心ごとの大半はゾロにとってどうでも良いことなのだ。
「何でンなことしなきゃいけねェんだよ」
「いいから、ほら」
 鼻先にずいと腕を突き出されたせいで必然的にそれを嗅ぐことになるが、人工的な臭いの発生源がわかったくらいで、だからなんだ、と思う。そういえば以前にも似たような臭いを嗅いだ気がするが、あれは女向けの香水だったか。それをつけたナミにサンジがいつもの調子でくねくねメロメロしていたことをなんとなく思い出したのだが、まさかゾロにそんな態度を期待するわけでもあるまいし、今わざわざ体臭を嗅がせてくる意図などわかるわけがない。
「わかんねェよ」
「あ?そうか?じゃこの辺は?」
 おざなりなゾロなどお構いなしのサンジは今度はTシャツの襟ぐりを軽く引っ張り、首を捻って嗅ぎやすいように肌を見せてくる。仕方なくそこに顔を寄せてみると、サンジの纏う臭いがより強く鼻に刺さり堪らず顔をしかめるのだが、その奥になにか、僅かに不思議な感覚の匂いがあるような気がした。サンジは一瞬、こそばゆそうにぴくりと身を震わせたが、構わずくんくん嗅いでみる。
 サンジの体臭をはっきり知っているわけではないが、喧嘩のときに距離を詰めるサンジからは大体煙草の匂いがしているし、近付いた時に感じる匂いは基本的に飯か海由来の匂いがしていた。そのどれとも違う。ふんわりと甘いような――だが決して嫌味な匂いではない。
「……な?どうだ、すごくないかこれ?」
「いや……何がだよ」
「あ!?」
 なかなか理解を示さないゾロにサンジも痺れを切らしたのか、いつもの調子で声を張り上げかけたが、周りの寝息に気付いたの再びこそこそと声を潜め言葉を続けた。
「わかんねェのかお前、レディの香りがするだろ。今日貰ったボディソープの試供品を使ってみたんだけどよ、そしたらどうよ、おれの体がレディに包まれてるんだよ。すげェ興奮すんだよこれ」
 こいつはアホなんじゃないだろうか。いやアホなことは知っていたのだが、アホを見る目でサンジを見る。サンジは自分の肩口をふんふん嗅ぎうっとりとアホ面を浮かべている。
 見慣れたアホ面にゾロは脱力しながらも、サンジの言う人工的な臭いとは別の匂いが少し気になっていた。
 アホはさておき、宙に浮いたサンジの腕を取り上げ、半袖から覗く二の腕に鼻を押し付けてみる。
「んっ……」
 ゾロが無遠慮に鼻先で袖をめくると、サンジは再びびくりとして悩ましい吐息を漏らす。汗を流してから床に付いたのか、本来なら汗臭いであろう脇付近もツンと鼻を刺すような臭いはせず、それどころか鼻を抜けて脳に届く匂いとサンジの吐息が耳元にかかる感覚に、確かになんだか妙な気分になってくる。
「……まぁ確かに……」
「だ、だろ!?おめェもわかるだろこの匂いマジックが!これで布団に包まってるとよ、まるでレディと寝てるような疑似体験ができるんだよ」
 ゾロの肯定的な態度にサンジは気を良くしたようで再び興奮に声を弾ませたが、レディがどうたらの方にはイマイチピンときていないし、むしろ今はそれが邪魔でしかない。掴んだだままのサンジの二の腕から脇を辿り、もう一度首筋に顔を埋めてみる。貪欲に匂いを追い求めるゾロにサンジは急におとなしくなり、息を殺したようにしてぞもぞと身じろぎをするが、構うことなく金髪に隠れる耳の後ろに鼻を寄せると一層強まった匂いがゾロの嗅覚を捕らえた。人工的な臭いの奥に潜むそれは不思議と安心するような、それでいてどこか甘美に脳を刺激し、サンジの蹴りが飛んでこないのをいいことに思うがままにその匂いを堪能していた。
「お、おい……!もういいだろ……?」
 しばらく嗅がれたい放題嗅がれていたサンジがやんわりとゾロの肩を押し返す。それでようやくゾロも我に返りサンジと顔が向き合うと、薄闇に浮き上がる白い頬に赤みが差しているように見え、心がざわついた。まるでサンジの興奮が伝染したかのようにドクドクと脈打つ心拍が良くない血を巡らせている。
「……確かにこりゃ、結構クるな」
「そ、そーだろ。すげェ発見だろ、へへっ」
 いつからかサンジの後頭部に回していた手で髪を軽く掴み、座り悪そうにきょろきょろと彷徨わせる碧眼を至近距離で覗き込む。
「……それでてめェは、何のつもりだ?」
「あ?つもりも何も……いや、すげェ発見したから、教えてやろうと思っただけだろ。たまにゃいいだろ、男同士そういう……猥談も」
「猥談?……そうか」
 一連の出来事が腑に落ちた気がした。サンジが持ちかけた猥談は、色っぽい話をして盛り上がるという意味で見事にその効果を発揮していた。だが生憎ゾロには他人と性的な話題を共有する趣味はない。きっとサンジが想定していた効果とは少し、いや大分ずれているだろう。何を期待したわけでもないが少しがっかりした自分に驚いたが、サンジの反応を見るに、付け入る隙は十分にありそうな気がする。
 ゾロが腕を放すとそそくさと離れたサンジは
「どーせてめェも右手が恋人だろ、寂しくなったら試してみろよな」
 と言い捨てながらマストを上っていった。
 今まで右手が恋人だろうが寂しいなどと思ったことはなかったし、女に包まれる疑似体験などはやりどうでも良かったが、良い収穫を得られた。
 さりげなく童貞を自白したサンジの背中をTシャツ一枚で外に出て寒くないのかと思いながら見送り、上着を羽織ったゾロも自分の持ち場に戻ることにした。





 昨夜はなんだか妙な空気になってしまった。
 ゾロから逃げるようにして男部屋を抜け出したサンジは、予定通りトイレで一発抜いた後再び毛布にもぐりこんだのだが、一度出しても尚体に残る熱と匂いの記憶が心臓に早鐘を打たせ、なかなか寝付かせてくれなかった。
 やや寝不足気味に迎えた翌日、いつも通りの1日を過ごし、夕食後の人気の無いキッチンで洗い物の手を動かしていたサンジは、ぼんやりとあの匂いを思い出していた。サンジの興奮を高め、それでいてどこか安心するような……あの匂いをもう一度感じたい。だがそれには少しばかり高いハードルがあるのだ。
 シンクに流れる水を止め、一度心を落ち着けようとテーブルの上に脱ぎ放ったジャケットから煙草を取り出そうとすると、背後からガチャリと扉が開く音がして思わず姿勢を正す。
 浮つく気持ちを悟られぬよう、軽く頭を回して音の主を確かめると緑頭が見えたので、何食わぬ顔を装い煙草を一本咥えようとしたのだが、気配が近付くと同時に項を掴まれ耳の裏に鼻を寄せられたので慌てて振り返りそれを制した。
「ぅオイッ何してんだてめェ!」
「昨日は嗅げつっただろ」
「ッバカかてめェ、昨日はボディソープの匂いを嗅げっつったんだよ!さすがにもうしねェよ、アレ使ってからだいたい一日くらい経ってんだ」
「いや、やっぱ悪くねェ」
「……あ?意外とまだ残ってんのか?」
 持続力のある香料だったのだろうか?慣れてしまって気付かなかったのかもしれない、と自分の腕や襟元を嗅いでみるのだが、やはりもうあのフローラルな匂いはどこにもない。一日分の汗をかいたただのサンジの匂いしかしないはずだ。
「やっぱもう全然……ッ!?」
 頭を上げると正面からゾロの顔が近付き、再び耳の裏に鼻を寄せてきたので咄嗟に肩を押し返したが、微動だにしないどころか何を躍起になっているのか逆にガッチリ肩と掴み返されてしまった。ふんふんと首筋を伝う鼻息にゾクゾクとした感覚が背筋を走り、昨夜感じたよくない感情が込み上げてくる。
 ゾロは時折顔を上げ、わざとらしくサンジの瞳を覗きこんでくるので、虎視眈々と獲物を狙う獣のような視線がいたたまらなく逃れるようにゾロの肩口に頭を埋めた。
 汗の匂いがする。不潔な男は嫌いだ。不潔じゃなくても野郎は嫌いだ。ごついしむさいし臭いし男の身体にいいところなんて何もない。サンジだって男の中の男だ。臭くはないが、面白みなんてなにもないはずなのに。
「全然、残ってねェし……!もう、ほんとにしねェから、やめろって……!」
「いや、する」
 キッパリと断言する声がサンジの耳に届くやいなや、ぬめりとした感触が首筋を這い、反射的に脚を出して抗議した。
「バカッ舐めんなコラ!あの匂いが気に入ったんなら自分で買えよ!」
 振り上げた膝の衝撃に腹を押さえ、ぐっと小さく唸ったゾロのギラリとした眼光がサンジを捉える。
「んなモン必要ねェよ。おれが気に入ったのはてめェの匂いだ」
「あ…!?」
「てめェが嗅げっつったんだ。もっと嗅がせろ」
 もっと嗅がせろ。
 ゾロの言葉がぐるぐると頭を巡り、返す言葉に詰まったサンジに再び伸ばされた手がさらりと耳にかかる髪を掬う。
 曝された耳が熱い。
「……ッま、待て…わかった。嗅ぐだけだ。だがそれ以外は何もすんな、勝手に舐めんじゃねェぞ」
「……わかった」
 元はと言えばサンジが始めたこと。匂いなんてすぐに鼻が慣れてしまうのだ。きっとすぐに飽きる。良く確かめてみればただの勘違いかもしれないのだ。
 うっかりそれ以上の事に及ばぬよう釘を刺すと、ゾロは不満気ながらも了承し、今度はそっとサンジの首筋に鼻を寄せて、指先で髪を弄ぶように頭を撫でた。
 昨日はレディの香りに包まれる感覚に興奮しただけだし、それを誰かと分かちあえたことが嬉しかっただけだし、こんなのは大型の獣がじゃれ付いてきたようなものだ。そう自分に言い聞かせながら、手持ち無沙汰の腕をそっと大型獣の背中に回してみる。
 昨日ゾロがサンジの匂いを嗅いでいる間、サンジもそうしていたようにそっと首筋に鼻を寄せてみると、汗の奥にやはりどうしようもなく甘く心地よい匂いがあって、ゴツイしむさいし臭いはずの男の身体を強く抱き締めていた。

おわり